3/09/2012

津波で流された自宅跡で亡き娘に再建を誓う-南相馬、震災後1年

 

3月9日(ブルームバーグ):福島県南相馬市の相馬農業高校。阿部千賀子さんの机には花とキャンディーが供えられている。17歳だった千賀子さんは震災で命を落とした。生きていれば今月、卒業式に出席するはずだった。遺族は11日に千賀子さんのほか、父親と祖父母の命を奪った津波の傷跡が生々しい自宅跡で故人の冥福を祈るという。

死者1万5854人、行方不明者3272人を出した東日本大震災から11日で1周年を迎える。多数の犠牲者が出た太平洋岸の津波被災地のほか各地で犠牲者の追悼行事が行われる。家族が離れ離れになったり故郷が分断されたり1年経った今も被災地の苦闘は続く。その中で政府を当てにせず、自分たちの力で立ち上がろうという動きも出ている。

千賀子さんの母親、ゆかりさん(43)は自宅跡のコンクリートの礎石の傍らで涙をこらえながら「千賀子はいつも家族の中心だった。月日の経つのは早いが、いつか戻ってくるような気がする」と語る。

ゆかりさんと千賀子さんの2人の妹は病院に予防接種に行っていたため無事だった。11日には花と線香と千賀子さんの好きだったチョコレートを供える。

千賀子さんの自宅跡から150キロメートル北方の気仙沼市。谷村宏一さん(59)の息子は昨年3月12日朝、自衛隊のヘリコプターで屋上から救助された。

漁船の残骸

日本有数の漁港である気仙沼は津波で燃料タンカーが陸に打ち上げられ火災があちこちで発生するなど、町全体が壊滅状態に陥った。今でも漁船が海から約1キロメートルの内陸に取り残されたままだ。

谷村さんは「震災の記念にそのまま残すという話もある。しかし、そんなことをすれば毎日、あの津波を思い出すことになる」と否定的だ。谷村さんは震災後のストレスで今年、脳梗塞を起こした。

気仙沼港の近くに臨時の「商店街」がつくられた。しかし客足は途絶えたままだ。すし店を経営する小野寺実木枝さんは、「人が入らない。花屋も売れないから仕入れない、仕入れないから品数が少ない。商売として厳しい」と述べた。

食料品、衣服などの支援物資の支給が復興を妨げている面もある。地元の店で買う必要がないために、小野寺さんは「お金が回らない」と指摘した。

再建のスタートライン

気仙沼から海岸沿いを車で30分下った陸前高田市は人口2万4000人のうち1700人が震災の犠牲となった。戸羽太市長は「今は復興のスタートラインに立ったところ」という。復興予算9兆円が国会を通過したが、戸羽市長は「現実には政局が変わったりし、3次補正は1月31日ごろ、お願いしてもまだ下りてきていない。1年になるのにまだ遅い」と批判した。

戸羽市長は2月、臨時市役所でブルームバーグ・ニュースのインタビューに応じ「地元に雇用をつくる会社がここ1、2年で来てくれないと、他に行ってしまう」と焦燥感を募らせた。戸羽氏は居酒屋チェーンのワタミのコールセンター誘致に成功した。これで雇用が100人確保できた。

気仙沼市の漁師、菅野潔さん(50)は「何かアルバイトしようかと思うが、小さい時から魚だけをとって生きてきたもんで、急に何をやれっと言われてもなかなかすぐは難しい。これからの魚が放射能で汚染されてとれない。保証金で生きていかなければいけないかもしれない」と述べた。

宮古市は最高39メートルの津波に襲われた。川部淳一さんは仮設の建物で雑貨店を営んでいる。売り上げは震災前の30%程度だ。「将来のことは考えないようにしている。考えると落ち込むから。漁師の言葉でゴーアヘッド、とりあえず前に進めだ」という。夜は「男山を引っ掛けてすぐ寝る」という。「男山」は地元産の日本酒だ。「ただひたすら忙しくするために、家を片付けたり、直したりしている」と現状を語る。

政治への不信感

福島第一原発周辺の住民約16万人がいまだに避難生活を余儀なくされている。周辺の一定の地域は今後数十年間は人が住めなくなる。

福島大学の清水修二副学長は政府に対する信頼は完全に失われたとし、懐疑的な見方が一般市民を行動に駆り立てるものの、支離滅裂で混乱していると指摘した。

政府は福島県民の放射線被ばく量を調査する費用として782億円を計上した。しかし、多くの人々が「実験用のモルモット」になるとして、調査への参加を拒んでいる。

高村美春さん(43)は政府からの郵便を開いてもいないという。2人の子供を持つ高村さんは事故当時、放射能汚染で居住に適さないとされた飯舘村の公衆電話に5時間も並んだ。

放射能による健康被害への懸念は家族を離れ離れにさせた。小河原律香さん(29)は夫を残し3歳の娘と地域を離れた。東北電力に勤務する夫は会社を辞めることができず、子供への放射能の影響について口論した結果だった。南相馬市の桜井勝延市長は、「合併した1つの市と2つの町がばらばらになった感がある」と語った。

福島第一原発から3キロメートルの双葉町は町民全てが避難を余儀なくされた。約500人が埼玉県加須市の廃校で生活している。井戸川克隆町長は1月のインタビューで、「高齢者、あるいは一人暮らし、あるいは就労できない方、そういう方々が残った」と説明した。告知板にはロシアのラーメン店の求人が掲示されていた。

自力の再建策

政府の復興策が進まない中で、東北では自治体が自力の再建策を展開している。南相馬の住民は大学や企業の協力を得て除染サービスを開始した。住宅、保育園などを除染している。

よつば保育園の近藤能之副園長は「行政、国、東電はもう期待できない。自分で動いていかないと。口を開けていても、餌は落ちてこない」と話した。

宮古市で160年にわたって日本酒を造り続けてきた菱屋酒造。津波で木造の母屋や米処理工場、貯蔵タンク、瓶詰め商品など全て流された。斎藤鉄郎専務は支援がなければ再建できなかったと述べた。

救いの手を差し伸べたのは東京のミュージックセキュリティーズ株式会社だ。復興ファンドを通して300人の投資家から合計1200万円を集め、酒造所再建を助けた。斎藤さんは「行政の補助にかかわらず、事業を再開したから今年の酒が間に合った。補助を待っていたら間に合わなかった」と振り返る。

釜石市の佐野酒店。最初からやり直すのは1933年の昭和三陸地震、第2次世界大戦時の沖合からの米軍による艦砲射撃、今回の大津波と3度目のことだ。佐野健司さんは「親父は何回も保険、援助、ボランティアもない中、稼いで、稼いで家や店を作り上げた。行政に助けてくれという考えはない」と述べた。その上で、「もう少し、各々が努力をしろと思う。日本人も駄目になったなと私は怒りを感じる。もう少し自分で頑張ることがあってもいいと思う。助けてもらおうという頭は全くなかった」と自助努力を強調した。

佐野さんは昨年11月に店を再開し最初の月に輸入ワイン約800本を売った。「自分の持っている財産でコツコツやっていくほかないなという感じだ」と地道にやっていく考えだ。

遺族の苦闘

南相馬では千賀子さんの遺族の苦闘が続いている。母方の祖父である林一重さん(67)は放射能の影響を気にしながら、津波で失われた農地の回復を目指す農家の先頭に立っている。林さんは震災後から、千賀子さんを1カ月以上探し、ついに相馬農業高校の体育館で遺体に対面した。その体育館はかつて千賀子さんがバレーボールに汗を流したところだ。林さんは一つひとつ遺体のビニール袋を開けて回った。すぐに千賀子さんだと分かったという。

林さんは「大切な家族がいなくなって辛い。初めは怒りに満ちていた。今では怒りとはどういうものか分からなくなってしまった」と肩を落とす。しかし、今は11日の1周忌をきっかけに「残された家族で協力しながら、2人の孫たちをとにかく一人前にすることだけを考えて生きていきたい」との決意を固めている。

原題:Japan’s 3/11 Disaster Endures in Broken Families, DividedTowns

http://www.bloomberg.co.jp/news/123-M0JUJ86JTSE801.html

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