4/17/2011

被災地から:東日本大震災 千葉→宮城・石巻 在宅困窮者の実態を取材 /千葉

 


宮城県石巻市 April 3rd, 2011  写真:By Carsten Knoche http://www.flickr.com/


◇惨状の中、優しさに驚き 衣食住足る記者、後ろめたさも

ここは本当にまちだったのだろうか--。潮騒が響く中、ぼうぜんと立ち尽くした。

5日から11日間、千葉支局を離れ、応援で宮城県に入った。初日に車で亀裂や段差が目立つ東北自動車道をひたすら北上し、日が暮れかけたころ仙台市に着いた。被害の大きかった若林区へ行き、言葉を失った。民家が根こそぎなくなり、人影もなく、がれきだけが積もっていた。


2日目から宮城県北部の石巻市へ通った。沿岸部の国道で途中の塩釜市、松島町を通り過ぎる間も、がれきの山が絶えない。壊滅的な光景にショックを受け、夜は数日間寝付けなかった。


石巻では、いつどこにいても生々しい被災の現実を突きつけられた。営業を再開したばかりのレストランに入ると、近くに座った10代らしき若者たちから「避難」「火葬」「行方不明」といった言葉が漏れ聞こえてくる。

遺体安置所となっている青果市場では、入り口の机に身元不明遺体の写真を載せた分厚いファイルが何冊も置かれていた。身内を捜す住民がひっきりなしに訪れ、ファイルを食い入るように見つめてページを繰る。泣きながら安置所を去る人の姿もあり、取材どころではなかった。大震災から1カ月たっていたが、石巻は復興はおろか、まだ震災の真っただ中にある。


千葉との落差はあまりに大きい。沿岸部で大きな余震に遭うと、揺れだけでなく津波が気にかかって落ち着かない。避難所の炊き出しは長蛇の列。かろうじて開くコンビニ店はいまだに食品の棚ががら空きだ。意外だったのは、放射線の影響を気にする住民はあまりいなかったことだ。住居、食料、ライフラインがままならず、明日の生活すら見通せない中、原発の話題は二の次のようだ。



宮城県石巻市 April 3rd, 2011  写真:By Carsten Knoche http://www.flickr.com/

< 惨状の中で驚かされたのは、東北の人々の優しさだ。

在宅被災者に支援物資が届かず困窮している実態を取材しようと、50代の女性宅を訪ねた。周囲が壊滅する中で、奇跡的に残った家で暮らしている。取材を終え、家を辞す際に、同居する30代の娘さんが「どうぞ。これしかありませんけれど」と、ポリ袋に支援物資のパンや飲料水を詰めて渡そうとしてくる。貴重な食料をもらうわけにはいかないと何度も断ったが、「取材大変だと思うので」と勧めてくる。どうしても断れず、結局「大事にいただきます」と言って受けとった。

悲劇の渦中で、なぜここまで優しくなれるのか。帰りの車で胸が熱くなり、涙が込み上げてきた。と同時に、まるで優しさにつけこむかのように原発のリスクを東北に押しつけ、「節電」と言いつつ衣食住の足る生活を送る関東圏に暮らすことに、後ろめたさを感じた。


「復興? あと50年ぐらいはかかるんじゃないか」。諦めたように語る男性の一言が忘れられない。男性は石巻市で避難所支援のコーディネーターを務め、震災後は毎日ほぼ不眠不休で働く。それでも復興の手応えは感じられないという。


未曽有の災害に対し、どこまで言葉で立ち向かえたか、まったく自信はない。人の言葉で語れる限界を超えた天災なのかもしれない。だが、それでも諦めずに日本全国や世界に被災地の現状を発信し、復興へのヒントを伝え続けることが必要だと思う。


千葉県にも津波の被災地や液状化被害に苦しむ地域はある。放射線の影響にも振り回されている。東北で受けた衝撃を忘れず、震災取材を続けていきたい。【黒川晋史】


記事:毎日新聞より

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