4/27/2011

支える人々‐南三陸町の開業医・笹原政美さん

 

◎仮設診療所で内科診療続ける/使命感持てる力注ぐ

―東日本大震災2日後の3月13日から、南三陸町の志津川小体育館で診察を始めた。

「開業していた病院で診療中に地震が来た。高台に避難したものの、津波の勢いが強く、水が迫ってきたため、山伝いに小学校まで避難した」 「小学校には、町中心部のお年寄りが避難していて、公立志津川病院の看護師や町の保健師と診察に当たった。自宅を流され、しばらくは体育館に寝泊まりしながらの診察だった。薬などがない状況をボランティアや警察に訴えたところ、登米市の薬局から運んできてくれた」

―イスラエルの医療チームが残した施設や医療器具を使って今月18日から公立志津川病院としての診療が始まった。

<カルテ全て失う>

「もう1人の内科医と共に、1日約100人を診ている。医療態勢は向上したものの、カルテは全て失われ、患者さんも処方箋や診察券が流された。複数の医療機関にかかっていた人もいるが、まとめて診ざるを得ない。一人一人から既往症を聞き取り、カルテに落としていくゼロからのスタートだった。時間がかかり、いまだに手探りの診察が続いている」 「町にかかりつけの医師がいる安心感は大きい。町外に避難した人も通院している。仮設でも、志津川病院の存在が町民の支えになっている」

―震災から1カ月半がたち、町民を診察した印象はどうか。

<集団生活で憔悴>

「皆、憔悴(しょうすい)している。慣れない避難所での集団生活や、自宅に身を寄せている親戚の世話をしなければならない責任感などで、疲労やストレスがたまっている。診察では話の聞き役になることも重要だ。今まで十分に頑張ってきたのだから、全てを背負わないで、とアドバイスしている」

―医師として、南三陸町にとどまる理由は。

<町民への恩返し>

「1999年に志津川病院から米山町国民健康保険病院(現登米市立よねやま診療所)に移ったが、その後も多くの町民が診てほしいと通ってきた。町は高齢化が進み、登米市まで来るのは一苦労な人も多かった。30代から50代を志津川で過ごし、医師として、人間として、町と町民に育ててもらったと思っている。恩返しの思いもあり、2005年に志津川に戻って『ささはら総合診療科』を開業した」

「震災後も町にとどまるのは、恩返しの面もあるが、やはり、医師としてやらなければならない、そこから抜け出すのは許されないという使命感が一番大きい。今後も自分がやれること、持てる力を全力で注ぎ込んでいきたい」(聞き手は渡辺龍)

<ささはら・まさみ>北海道北檜山町(現せたな町)出身。札幌医科大卒。1979年、公立志津川病院勤務。89年から99年まで副院長。2005年に「ささはら総合診療科」開業

2011年04月27日水曜日


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